KDDIの歴代社長

KDDIの創業者・稲盛和夫
 (いなもり・かずお)

通信自由化でいちはやく名乗りを上げ、電電公社の独占に対抗すべく「第二電電」(現KDDI)を設立した。インフラを持たない不利な状況から、マイクロ波通信による独自網の構築や、画期的な「アダプター」作戦でシェアを獲得。さらに周囲の反対を押し切って携帯電話事業へ参入し、総合通信会社としての現在のKDDIの礎を築いた。

創業年

1984年6月(第二電電企画株式会社)

創業時の年齢

52歳

生まれ

1932年(昭和7年)

出身地

鹿児島県

出身校

鹿児島大学(工学部)
※1955年卒業

創業前のキャリア

1959年、京都セラミック(現:京セラ)を設立し、取締役技術部長に就任。1966年に社長となる。京セラを優良企業へと育て上げた経営手腕と豊富な資金力が、後の第二電電設立の大きな後ろ盾となった。

第二電電(DDI)創業の経緯

通信自由化と「動かない」大企業

1982年7月、土光臨調が「電電公社の民営化」を含む答申を提出し、通信自由化への道が開かれた。 以前から米国の工場を訪れていた稲盛氏は、日本の電話料金が米国に比べて著しく高いことを知っており、自由化による値下げを歓迎していた。

当初は商社などの大企業連合が新会社を作るだろうと予想していた。しかし、年が明けても誰も手を挙げなかった。「誰もやらないなら、私みたいなものでも声を上げなければいかんのではないか」と思い詰めたが、巨大な電電公社に挑むリスクに毎晩悩んだという。

「利権の分け合いではなく、競争原理を導入しなければ国民のためにならない」という義憤が、稲盛氏を突き動かした。

千本倖生氏との出会い

1983年夏、電電公社(近畿電気通信局)の千本倖生氏と出会う。千本氏が民営化と競争導入に大賛成であることを確認すると、稲盛氏は「力を貸してくれんか」と勧誘。千本氏は快諾し、電電公社の若手技術者を集めた。

週末ごとに京セラのゲストハウス(和輪庵)で、電話会社を作るための戦略が練られた。

仲間を増やす

1984年の新年会で、ウシオ電機の牛尾治朗氏、セコムの飯田亮氏、ソニーの盛田昭夫氏らに構想を明かし、参入への意欲を引き出した。京セラチームは新電電として最初に名乗りを上げることになる。

「持たざる者」の戦い

巨大インフラを持つライバルたち

京セラチームが手を挙げた後、国鉄(JR)、道路公団、電力会社などが相次いで参入を表明した。彼らは鉄道や高速道路の沿線に光ファイバーを敷設できる強力なインフラを持っていた。

稲盛氏は国鉄総裁や建設大臣に「国民の財産であるインフラを使わせてほしい」と直談判したが、門前払いされた。メディアも「インフラを持たない第二電電(DDI)は最初に脱落する」と厳しい論調を展開した。

新電電 インフラ・特徴
日本テレコム 国鉄(JR)系。鉄道沿線の通信網を活用。
日本高速通信 道路公団・トヨタ系。高速道路沿いに光ファイバーを敷設。
第二電電(DDI) インフラなし。独自の無線網構築が必要。

元電電公社総裁・真藤恒氏の助け舟

DDIは、大阪~東京間を「マイクロ波」という無線でつなぐ計画を立てたが、日本の上空はすでに電波で混雑しており、ルートが見つからずに困窮していた。

その時、敵であるはずの電電公社総裁・真藤恒氏から電話が入る。真藤氏は稲盛氏が競争のために声を上げたことに感謝し、電電公社が調査していた「最後に残っている空きルート」を教えてくれた。これによりDDIは、山の頂上に鉄塔とパラボラアンテナを建設し、独自ネットワークを完成させることができた。

逆転の「アダプター」作戦

1986年に始まった企業向け「専用線サービス」では、強大な販売網を持つ国鉄系の日本テレコムに惨敗した。稲盛氏は「専用線では勝てない」と判断し、一般家庭向けの長距離電話サービスに全力を注ぐよう号令をかけた。

「0077」の壁を越える

しかし、DDIを使うには「0077」という識別番号を最初に回す必要があり、面倒だった。そのままダイヤルするとNTTにつながってしまう。

そこで稲盛氏は、電話機に取り付けるだけで自動的にDDI回線につながる「アダプター(LCR)」を考案し、京セラに開発させた。これを無償で配る作戦が大ヒット。「判官びいき」の同情票もあり、一般回線分野では常にトップを走ることになった。

携帯電話への参入

1986年、稲盛氏は役員会で「自動車電話(後の携帯電話)」への参入を提案する。

「無茶だ」と全員反対

当時、自動車電話はNTTですら赤字であり、トランクに積むほど巨大だった。社長の森山氏や千本氏を含め、役員全員が「無茶です。絶対に赤字になります」と猛反対した。

技術の進化を予見

しかし、稲盛氏は京セラの半導体部品(LSI)事業を通じて、集積回路の性能が幾何級数的に向上していることを知っていた。「いずれ端末は小型化し、一人一台の時代が来る」と予見し、強引に参入を押し切った。

この決断が、現在のKDDIの主力事業である「au」へとつながっていく。

京セラとの関係

「1000億円損するまで」

第二電電の設立には、インフラ構築などで莫大な資金が必要だった。京セラは優良企業で豊富な資金を持っていたが、設立時の京セラ役員会はリスクを懸念した。

稲盛氏は「第二電電が1000億円損をするまでやらせてくれ。そこまでいったら、京セラが1000億円を補填して撤退する」と説得。あくまで京セラの屋台骨を揺るがさない範囲での挑戦であることを約束した。

結果として、借入金の保証はしたものの、出資金以外のお金は京セラから一銭も出さずにDDIは成長した。

経営スタイルと哲学

「国民のために」という座標軸を据え、寄せ集めの社員をまとめ上げた。

動機善なりや

参入にあたり、稲盛氏は「本当に私利私欲はないか」「動機は善なのか」と自問自答し、半年間悩み抜いたという。

「百年に一度」の好機

出身母体が異なる社員たちに対し、稲盛氏はこう鼓舞した。「電電公社の民営化は、明治以来百年に一度の大改革だ。その転換期に立ち会い、国民の通信料金を安くする事業に携われることは、男冥利に尽きるではないか」。この旗印が、混成部隊のモチベーションを劇的に高めた。

初代社長・森山信吾
 (もりやま・しんご)

通産省(現・経産省)出身の官僚エリートでありながら、非常にさばけた人柄で「森山バー」を開くなど社員に愛されたリーダー。資源エネルギー庁長官などを歴任し「コンピューター政策のボス」と呼ばれた顔の広さを活かし、創業期のDDI(第二電電)を牽引。新電電グループのリーダーとしてNTTとの折衝や全国行脚に奔走したが、志半ばで急逝した。

社長の在任期間

1985年6月~1987年12月
※1984年6月の「第二電電企画」設立時より社長を務める。

生まれ

1926年(大正15年)

死去

1987年12月9日(享年61歳)

社長就任時の年齢

59歳

社長就任前の役職

京セラ副会長
(元・通産省 資源エネルギー庁長官)

前任者の処遇

-(初代社長)

社長就任人事の背景・経営

通信自由化に伴う新会社設立にあたり、各業界に顔が利き、調整能力に長けた森山氏に白羽の矢が立った。稲盛和夫会長の「右腕」として、実務のトップを任された。

内示(入社の経緯)

稲盛和夫氏との出会いは1972年、森山氏が通産省の課長時代に鹿児島県人会で意気投合したことに遡る。「役人を辞めたらぜひウチに」と口説かれ続け、退官後の1983年、10年越しで京セラ入りした。その後、DDI設立の中核として社長に就任した。

出身地

鹿児島県

出身校(最終学歴)

京都大学(法学部)
※1948年卒業

入社年次

1985年(DDI設立時)

入社理由(キャリア)

通産官僚として

1948年、京都大学卒業後に通商産業省(現・経済産業省)に入省。 中小企業庁、ジェトロ(サンフランシスコ、バンコク)、重工業局などを歩む。

コンピューター政策のボス

機械情報産業局長などを歴任し、黎明期の日本のコンピューター産業育成や情報政策を主導。「コンピューター政策のボス」との異名を取った。

エネルギー政策のトップ

1979年には資源エネルギー庁長官に就任。日本のエネルギー政策の責任者を務めた後、1983年6月に退官した。

人柄・性格

非常にさばけた温かい人柄で、ライバルたちからも好意を持たれていた。

「森山バー」

月の半分以上を地方出張に費やす激務の中、夜は社長室を開放して「森山バー」と名づけ、社員と懇談することを常としていた。平均年齢28歳という若い会社を引っ張るため、疲れた体にムチ打って社員との対話を大切にした。

NTT真藤総裁との関係

ライバルであるNTTの真藤恒社長(当時)とも、腹を割って話し合える「同志」とも「兄弟」ともいえる仲を築いていた。

社長就任時の抱負

「われわれの仕事は鉄道の線路を敷くようなもの」。 通信自由化という未踏の荒野に、民間主導でインフラを築くという使命感に燃えていた。

社長時代の実績・取り組みなど

「0077」市外電話サービスの成功

1987年9月、東京-大阪間の長距離電話サービス(市外電話)を開始。 開業に向け、郵政省やNTTとのタフな折衝に明け暮れた。 開業後はユーザー獲得の陣頭に立ち、わずか3か月で90万件以上の契約を獲得。DDIを「新電電3社」のトップに押し上げた。

流行語大賞を受賞

1987年、「第二電電」という社名が「日本新語・流行語大賞」の新語賞に選ばれた。 倒れる前日の受賞パーティーでは「信吾(しんご)が新語(しんご)賞をもらうのは当たり前」とジョークを飛ばし、会場を沸かせていた。

携帯電話事業への布石

「第二電電の未来を託す」と意気込み、自動車電話(後の携帯電話)の事業化に奔走。 まだ海のものとも山のものともつかぬ携帯電話会社を作るため、日本中を飛び回って出資や協力を募った。これが現在の「au」の基盤となった。

壮絶な最期

スピーチ直後の倒伏

1987年12月1日夕方、雑誌社主催の会合でメーンゲストとしてスピーチを行った。 演題は『第二電電かく闘えり』。 約3分間のスピーチを終えた直後、「気分が悪い」と訴え、救急車で虎の門病院へ搬送された。

急逝

搬送時は意識があったが、検査中に意識を失う。脳内出血と診断され、必死の看護も虚しく、12月9日に帰らぬ人となった。61歳没。 働き盛りの現役社長の「戦死」は、社内外に大きなショックを与えた。

関係者の反応
  • 稲盛和夫会長:訃報を受け、会長室で声もなく立ち尽くした。「かけがえのないパートナー」を失ったショックは計り知れなかった。
  • NTT真藤総裁:「電気通信の今後の発展にとっても惜しい」と肩を落とした。

葬儀

1987年12月22日、青山葬儀所にて「第二電電・京セラ合同葬」としてキリスト教式で執り行われた。 葬儀委員長は稲盛和夫会長、喪主は妻の多津(たづ)さんが務めた。